イエスさまって優しいんです。本当に優しいんです。

(コルコバードのキリスト像、ウィキペディアから)
<2022年のはじめに>
昨年を振り返って、神さまがしめしてくれたメッセージってなんだろうかと思いめぐらしていましたら、“神さまの優しさ”でした。
それでインターネットで、神さまの優しさについて何か書かれていないかと調べていましたら、2013年の晴佐久神父様のメッセージ「イエスさまって優しいんです」というのを見つけたのです。
『イエスさまって、優しいんです。ホンットに優しいんです。どんな人にも、優しい。どんな場合でも、優しい。絶対に優しい。・・・これは、キリスト教の基本中の基本。もしも「キリスト教憲法」なんてのがあるんだったら、その第一条に、「イエスさまは優しい。あなたに優しい。どんな罪びとにも優しい。どれほど自分は救われないと思っていても、イエスさまは優しい。優しいイエスさまこそが、救い主である」。そう書いてあるはず。・・・これは、キリスト教の基本中の基本です。』(https://www.fukuinnomura.com/?p=3428 から引用させて頂きました)
本当にそうだと思います。・・・もし、この優しさに気がつかなかったら、この優しさを見失ったら、私たちの信仰生活は、まったく味気のないものになってしまいます。
<クリスチャンはみんな優しいんです、本当に>
なのに、クリスチャンの中には、“優しくない人”もいます。そういう私こそ優しくない者のひとりなのです。道でお金をねだる人には決してやりません。1セントもあげない。そう決めているのです。
ロサンゼルスからサンフランシスコに行く途中のガソリンスタンドで、ガソリン代がないので助けてくれという人がいて、1ドルくれというのであげました。1ドルではロサンゼルスにもサンフランシスコにもいけません。そしたら、他の人からもまた1ドルもらっていたので、“あっそうか?頭がいいな。”と思いました。1ドルならみんなから貰えるでしょう。
道路で、“失業して生活に困っている”という手書きのカードボードを持った人たちにもお金をあげません。アメリカには困った人を助ける機関がたくさんあるのです。どうせアルコールの費用になるんだろうと無視してしまいます。
交差点で、バケツと窓ふきの用具を抱えた人が居ました。車のフロントガラスを拭いてお金をもらおうというわけです。ちゃんと仕事をするんだから、乞食のまねじゃないのだからいいと思うのですが、いやな思い出があるのでしてもらっていません。
数十年前のニューヨークは、怖いところでした。仕事でそこに出かけて車を借りて運転していたとき、交差点で止まったら、バケツをもった黒人がフロントガラスに汚い水をぶっかけてお金をくれと叫ぶのです。恐ろしかったです。
そんなことを思いだしていたら、そのバケツをもった人が走っていきました。信号はまだ赤でしたがもうすぐ青に変わろうとする時です。間に合うかなと思って、彼の姿を追ってみたら、誰かが車の窓からお金を渡していました。その時、信号がかわり私たちは(その車も)走りだしました。
その人は、お金をあげただけだったんですね。・・・走りだしてから自分もそうすべきだったかな~と心のなかで反省しました。
『13:1過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。13:2 夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが、 13:3 イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、 13:4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、 13:5 それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。』(ヨハネの福音書13章1~5節)
イエスさまは、自分の死が近いのを知り、愛する弟子たちの足を洗いました。自分を裏切ろうとするイスカリオテのユダの足をも洗ったのです。“自分の足は洗わないでください”と言ったペテロには、“もし洗わなければ、私とあなたの関係はなくなる”と言われたのです。
私たちクリスチャンは、イエスさまを信じ、イエスさまと人生を共に歩んでいるわけですから、イエスさまの優しさを学んでいるはずです。だから、私たちクリスチャンは、優しいんです。本当に優しいんです。
だから、今年こそ、自分には優しさがないと嘆くことがないようにしたいと思います。私たちは、イエスさまの弟子なんですから。
文責: ロバート イー