主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

不如心(思いどおりにならない)世界に生きる私たち

主と私


<妻の実家の和室に掲げられた書道額が読めませんでした>


この書道額(欄問額と言うのだそうですが)が読めなくて困っていたら、長年の友人M氏に写真を見せたら、「如心」だと教えてくれました。で、「如心」とはどういう意味か調べたら、論語に出てくる言葉で、“思いどおりになる”という意味だそうです。


如心の前に“不”がついていたら、“思いどおりにならない”という意味になるのですが、論語には「如心」(思いどおりになる)と書かれているそうです。


妻の父は、俳人で含蓄のある人でした。だから、この書道額を選んだのには理由があっただろうと思います。単に、すべてうまくいけば良いという思いで掲げたのではないはずです。でも、私たちは「すべて思いどおりになればいいと思って人生を歩んでいる」のではないでしょうか?


<なのに、思いどおりにいかないのが人生だと言われます>


いや、思いどおりにいく場合もあれば、思いどおりに行かない場合もあるのですが、思いどおりにいかなかった時の方を覚えているのは、苦労したからかもしれません。でも、もし、そういう苦しみ、悲しみを全部とってしまったら、何が残るでしょうか。


昔は「苦労は、お金で買ってもしなさい」と言われたものですが、歳を重ねてきて、お金を払って苦労をしたいとは思わないけど、苦労させてくれた神さまには感謝しています。


あの(瞬きの詩人)水野源三さんの詩「悲しみよありがとう」は、苦しみ悲しみを克服した状況を詠ったものではないのです。苦しみ悲しみの真っただ中で神さまに感謝をささげているのです。(*)


もし、あなたが今八方ふさがりの状況におられるなら、上を見上げなさいと誰かがいいました。上は(いつも)開いているそうです。そして“神さま”と呼んでみなさい・・・何か聴こえるかも知れません。


『わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す。』(口語訳聖書 エレミヤ書33章3節)


文責: ロバート イー

(*参照) 著書「悲しみよありがとう」 脳性まひの兄・源三がつむぐ「まばたきの詩」の数々を聞き取った妹が語る、奇跡の詩人を支えた家族の物語。詩も27編を収録。(著者 林 久子)

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