いっさいは空である・・・コヘレトからわたしたちへ

(丘にたてる教会堂です。Pixabay から無料の写真をお借りしました。)
<旧約聖書に「コヘレトの言葉」という書があります>
この書は、以前は “伝道の書” と呼ばれていましたが、“コヘレト” というヘブル語をそのまま使うようになりました。その理由は、コヘレト=集める人という意味で、人を集めて伝道するという意味で「伝道の書」と名付けられたそうですが、いろいろな知識を集めるという意味にもとれるので、ヘブル語の“コヘレトという者”という言葉をそのまま使う方がいいと判断されたそうです。
私は、この書ほど神さまを思わされる書はないと思いますので、「伝道の書」という題はとてもいいと思っています。それに、この本は、よく“厭世思想”だと言われますが、私はそうは思いません。私たちに現実をありのままに示しているだけだと思うのです。現実は、ここに書かれた通りなのです。私たちは、現実をそのまま見つめる勇気が必要なのだと思うのです。
キリスト教会では、この書を異端視する傾向があります。もしかすると、キリスト教会に変な楽観主義が蔓延しているのではないかとも思わされています。私たちは、ここの記述がわからないのではなく、この現実に対峙したくないだけなのかも知れません。
面白いことに、ある解説書には「空の空、すべては空である」というステートメントは般若心経に登場するあの有名な言葉「色即是空」(この世のすべてのものは実体(色)がなく、変化し続ける(空)ものだ)を連想したくなると書かれています。それもまたしかりです。
<物事を考える中学生になった>
たびたび書きましたが、私の家族は、朝鮮戦争の最中に日本に行くことになりました。私が7歳の時でした。約一年間、家庭教師について日本語を学び、小学校2年に編入したのですが、毎日地獄を経験したのです。毎朝3,4人の子供に待ち伏せされ、学校でも先生は助けてくれませんでした。ですから、韓国に帰ったら韓国の軍隊(戦車)を引きつれて、日本人を一人残らずつぶしてやると誓わなければ寝られない時をすごしたのです。
だから、私立の立教中学校を受験して入学した時は、最初が肝心だから生意気な奴はぶっとばしてやると身構えていたのですが、ほとんどが金持ちのボンボンで(中にはそれほどでもない子もいましたが)私が“韓国人”であるのを気にかける子供はひとりもいませんでした。みんな(先生たちまでも)、私をそのまま受け入れてくれたのです。私は、初めてのびのびと運動にいそしみ、いままでの地獄は何だったのだろうかと思うようになりました。
その時から、私は“考える人”になりまた。“国”とは何だろう、“戦争”とは何だろう、“人種”とは、“階級”とは、“富めるものと貧しいもの”、“生まれるとは、死ぬとは”・・・。いつでも何かを考えていたみたいでした。電車の中で考え事をしながら、降りる駅をミスしそうになったこともしばしばでした。
私がいじめられたのは、また先生たちに嫌われたのは、父が羽振りの良い外交官だったから、または、当時あまりみかけない自動車に乗っていたというようなことがあげられるでしょうか。あの頃の日本は、貧しかったのです。自分たちが支配していた韓国から裕福な家族が乗り込んできたと思われたのでしょう。
そういうことが分かってきて、私が反対側だったら、もっとひどいことをしたかも知れないと思うと同時に “人はなんと浅はかな存在だろうか” と中学の子供が考えていたのです。私たちは皆、生まれたとたんに、紛争と苦難の世界を生き延びていかなければならないのです。そして、頑張って、財を成し、名声を博しても、やがて自分の“死”を迎えるだけなのです。
聖書に「わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。」(第一テモテ6章7節)という言葉が‘あります。・・・空の空、すべては空じゃないですか!
<この世のすべての営みには(神さまの)時がある>
3章には、「時」について書かれています。「 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。 生るるに時があり、死ぬるに時があり、・・・ 愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。 働く者はその労することにより、なんの益を得るか。
わたしは神が人の子らに与えて、ほねおらせられる仕事を見た。 神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」
ここの全文は、私たち(特に日本文化を受け継いだ者たち)にとって心を揺さぶられるものだと思います。そして、ここで指摘されていることは、私たちの ”時“ が神さまによって定められているということです。
<神さまを知らない人生は、空しく悲惨なもの>
私は、ここで“我田引水”(自分の意見に賛同してもらおうと画策する)を企んでいるのではありません。このコヘレト(伝道者)もそんな手を使おうとはしていません。ただただ、この世界は、私たちの生きている“生き様”は、空しいのだと言っているのです。なんせ「空しい」という言葉がたった12章しかない書物に38回出てくるそうで(自分では数えていないのですが)それだけ出てくれば空しくなるだろうといわれます。
この世が空しいというのは、いわゆる見方とか考え方ではないのです。現実です。絵を描く人、音楽家などは、より良いものをつくるという目標をもって励むことができます。会社に勤めるサラリーマンでも自分の仕事に打ち込むことができます。家族のために精をだすことができます。でも、立ち止まって、自分の成果をながめても、究極的に “それで、どうなの?”と思い、“どうってことない”という結論になるのです。自己満足だけしかのこらないのですから。・・・はい、自己満足を否定しているのではないのです。でも、自己満足は、自己満足でしかないのです。
コヘレトの言葉の1章1節で、自己紹介をしています。「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉。」このコヘレトがあの栄華をきわめたソロモン王であるかのように書かれています。でも、多くの学者は、英知のソロモン王の名を使って “知恵” を語ったと言いますが、私はリビングバイブルの訳が好きです。『 ダビデ王の子で、エルサレムに住み、「伝道者」と呼ばれたソロモンの教え。』です。
もし、本当にソロモンが書いたものであったら、この“空しさ”は本物だと思います。あの栄華を極めたソロモンです。何もなくて空しいのではなく、ほしいものをすべて手にいれたソロモン。良いものにあきたりて、ふっと“空しさ”につつまれる。すべてを手にいれても、何もないような寂しさを感じた人がいたとしたら、ソロモンではないかと思われるのです。
<“あなたを創られた”神さまを覚えなさい>
コヘレトの言葉の最終章、12章 1節 「 あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、『わたしにはなんの楽しみもない』と言うようにならない前に」
コヘレト(伝道者)は、繰り返し、私たちの人生は「空しい」といいます。私たちは、毎日しなければならないことに追われて、充実した日々を送っているかのように“錯覚”しているけど、私たちはただ自分の死に向かって走っているだけにすぎないのだというのです。
だから、あなたの創り主(神)を覚えなさい、“あなたを創られた” 神さまを思いだしなさいと語っているのです。なぜなら、私たちの人生に究極的な意味を与えてくださるのは、私たちの創り主(神)だからだというのです。
コヘレトの最後の言葉:
「事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである。」
文責: ロバート イー
文責: ロバ