主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

もし大谷選手がクリスチャンになったら?!


<クリスチャンはみんなそう思っていることでしょう>


もし、大谷選手がご夫人と教会に行かれたら、報道陣が待ち構えていて、その教会の人たちは、自分たちは関係ないみたいなことを言いながら、心では神さまのみ名をほめたたえるに違いありません。


大谷選手がクリスチャンになったなら、多くの人がキリスト教に興味を持ち、救われる人が現れるかもしれません。でも、そういう人たちは、長続きするでしょうか?


そんなことはわかりませんね。昔、日本からきた学生たちに“日本食が食べられますよ”と言って、眠りたい日曜日の朝に若者たちを教会に連れていきました。日本食など食べるところがなかった頃の話です。そして、その多くの若者が救われ、その中から、牧師になった人たちが起こされたのです。


<本当に大谷選手がクリスチャンになれるのでしょうか?>


彼は、愛すべき人格者です。敵陣の選手からも愛されています。それが試合中の場面に現れています。敵に愛される人がクリスチャンになる?そんな必要ないよな~と思うでしょうか。だって愛を実行している人なんです。


私もそう思います。イエスさまは愛を実行しなさいと語りました。見せかけの善行はダメですとおっしゃいました。大谷選手はそれを実行しているのです。


人を愛し愛される、見返りを期待しないで善いことをする、素晴らしいです。でも、“救われる”ということは、神さまを受け入れることですし、神さまに受け入れられることです。


もし、大谷選手が彼の望んでいることがすべてかなえられて、それ以上に何もいらないという状態を維持していけたら、彼には、“救い”は必要がないのです。


彼は、結婚しました。一緒に(ずーと)居て、楽しい人だったといいます。良い時もつらい時も傍に居てほしいと思われる人だったのでしょう。手術をして今までのようにやれなくても傍にいてくれる人だと思われたのでしょう。


<人の心のなかには空洞がある>


「人の心には“穴”があって、その穴を埋めてくれるお方は、神さまだけなんだ」と言った人が居ました。どんなに素晴らしい人生をおくっている人でも、その心のなかの空洞を埋めることができない。その空洞は、神さまか住まわれるところだ、というのです。


聖書に『 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。』(マタイ5章3節)という言葉があります。それは、私たちのこころの空洞のことだと思います。


あの優秀な大谷選手だって、否、優秀であるからこそ、この「こころの奥底の空洞」を感じているだろうと思います。奥さんとふたりで、この世のものでない“幸”をつかんでいってほしいと思います。それが日本の救いにつながるかどうかなんかに関係なくにです。


私は、かつての平成天皇、美智子皇后は、隠れキリシタンだと思っています。救いは個人的なものです。


私たちクリスチャンは、大谷選手のように人を愛し愛されている多くの日本の方々のために、その救いのために祈っています。”天の御国はその人たちのものだから”です。


文責: ロバート イー

わたしたちは、祈ります。誰に教えられなくても祈ります

  (ロサンゼルス・ホーリネス教会のステンドグラス)


<祈るということはどういうことでしょうか>


信仰とは関係なく、私たちは “がんばってね、祈っています” などと言います。英語でいうと“Good Luck!”(幸運を願う)みたいなものです。あなたが望むようになるように、願っています、と励ましているのです。


祈るということ、祈願するというのには、祈る対象があります。・・・ 台湾には仕事でよく行きましたが、観光をしたことはめったにありませんでした。そういう私に、ある取引会社がわざわざ台北での半日の観光を計画してくれたのです。


ホテルに古い車で迎えに来てくれた人は、少し日本語が話せる人でしたが、車であちらこちらの寺院をまわるのでした。私がクリスチャンであることを知ってか知らずか(有名な?)寺院を回りました。そこでは、多くの人たちが長いお線香を手にして、それを上下に振りながら、お辞儀をくりかえしていました。


人々は、自分の願いを見えない大いなる(力ある)存在に託しているのです。


私の家は、クリスチャン家庭でしたので、教会につれていかれました。そして皆さんの立派な(?)お祈りを聞きながら育ちました。学校は聖公会でしたので、祈祷書というものがあって、祈るというより唱えます。


<祈りはかっこよく祈らなくてもいいのです>


私は、かっこよく祈れません。それでも、多くの人に “どうしたら、皆さんのように立派なお祈りをすることができるのでしょうか?” “皆さんは練習されるのでしょうか?”と訊かれました。


私が神さまを求めるようになり、教会の祈祷会に出席するようになって、しばらくした時、司会の方が “今晩の祈祷会のために Yi兄弟に開会のお祈りをしていただきます。”・・・ “その前に賛美をいたしましょう。聖歌何番を賛美しましょう・・”と言われたのです。


・・・私は、まだ声をだしてお祈りすることに慣れていませんでした。神さまに自分が思っていることをぼそぼそとお話しする状態でしたのに、祈祷会の開会のお祈り、みなさんの代表のようなお祈りなんかできません。


みなさんが賛美をしている間、どうしよう・・・“神さま、助けてください!”と叫んでいたのです。そして、みなさんが賛美をしている間、みなさんがしているお祈りを思いだしながら、開会のお祈りをしたのです。冷や汗ものでした。・・・ このようにして、神さまに祈るということを覚えていったのです。特別に台本があるわけではないのです。


聖書に、神さまはすべてご存じだと書かれています。人に聞かせるような祈りをするなと書かれています。そして、このように祈りなさいとイエスさまは「主の祈り」を教えてくださいました。 ・・・ 神さまはすべてをご存じなのに、“求めなさい”とも書かれています。(マタイ7:7~11)


神さまは、祈ったから私たちの願いをかなえてくださるのではないというのです。神さまは私たちが祈らなかった時でも私たちの願いをかなえてくださっていたのだ、ということもわかってきます。


祈りに形などないのです。かっこいいお祈りは人に聴かせる祈り、無言の祈りこそ本当の祈りです。(ただ、無言だと自分がどういうことを祈ったのかわからなくなります。)


どのようにして祈るのかわからない人には、まず、”神さま”とお祈りするお方にに呼びかけること、最後に”イエスさまのみ名によってお祈りします”ということだけお伝えしています。


それは、イエスさまが、ご自分の名前によって祈りなさいとおっしゃったからです。


<お祈りの基本は、神さまに話すことです>


神さまに祈るということは、神さまを身近に感じることです。・・・


♫ お母さん、お母さん、お母さんってばお母さん。何にもご用はないけれどなんだか呼びたいお母さん。お母さん、お母さん、お母さんってばお母さん。何遍読んでもうれしいなぁ、お返事なくてもうれしいなぁ ♪・・・という歌があります。


私は、時々(心の中で)“あぁ、主よ・・・”と呼びます。何も用事がないのに、否、有りすぎるのかも・・・返事がなくても呼びます。・・・主はいつも私たちを見守ってくださるお方なのですから。


<「主の祈り」:主イエスが教えてくださった祈りです>


「 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。  御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。  私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。  私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。  私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕」(新改訳3版 マタイの福音書6章9~13節)


文責: ロバート イー

神さまって本当に居るのですか?

 --「わたしは有って有るもの」出エジプト記 3:14  --


<信仰から離れる人、信仰を捨てる人がいます>


最近、身近な人が信仰を捨てたということを聞いて、悲嘆にくれています。“神さまを信じなさい。そこにすべての問題の解決があります”というメッセージをかかげても、人はなかなか信じません。


自分は、たまたま神さまの存在を信じ、その信仰を確かなものとしてきましたが、、いろんな個人的な事情を経て、その信仰をすてるという話をきくと、悲しくなります。


一度信仰に入って、それを捨てるという人はもう許されないという神学があるそうですが、自分はそう思いません。


いずれにしても、そういうことになった原因は、いわゆる「神の沈黙」ということだろうと思います。


神さまが、自分が必要とした時に応えてくれなかったとか、自分が、気休めでまたは藁をもつかむような思いで“架空の”神さまを求めていたのだと思われたのかもしれません。


<聖書の神さまは生きています>


自分は神さまに出会った、いや、信仰を与えられた方々は、みなさん、それぞれの人生の過程で “神様と出会った”(ブルトマン)のです。


それは、神さまが生きて存在しているからなのです。なのに、その神さまから離れ、背を向けてしまう人たちがいるのです。


その理由は、わかりません。本人にもわからないかもしれません。勿論、神さまは悲しむでしょうし、本人も(間違いなく)さびしい、悲しい思いしていることでしょう。


ある人は、“それは、サタンの仕業なんだ”と切り捨ててしまいます。・・・ そうかもしれませんが、わたしは、しつこく悩みます。そして、無力感に陥ります。


<自分に失望し、神に失望する時>


カソリック教会や聖公会では、「キリエ・エレイソン」(主よ、憐れんでください)と唱和するのですが、これは、私たち信仰者の最終的な祈りだと思います。


特に、疲れ切って、生きることがつらくなる時、、そういう時は (わたしは)「主よ、わたしを憐れんでください」と見えない神さまに呼ばわります。そして、耳を澄ますのです。


『願わくは主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
 願わくは主がみ顔をもってあなたを照し、あなたを恵まれるように。
 願わくは主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わるように』(民数記6:24~26)


文責: ロバート イー