主を仰ぎ見つつ

キリスト教的思索

信仰者は、此の世の「政治」にどのようにかかわるべきなのだろうか(3)・・・・・<信条的な違いが信仰者の信仰を決めるものなのだろうか>


アメリカでは、共和党的も民主党も最高裁判事を選ぶときは、どういう信条をもっている人かという基準で選びます。


例えば、共和党が政権を握っている時は、堕胎に反対の人(ProLife)を選び、民主党が政権を握っている時は、妊娠した人の意思を尊重する人(ProChoice)を選びます。


私は、堕胎に反対です。でも、その人が堕胎する決心をしたら、地獄に行くぞと脅かすことは出来ないのです。それを判断するのは、神さまだと思っているからです。そういうと、必ずあなたは保守派じゃないリベラルだと言われてしまいます。


私は、ゲイ(同性愛)を聖書が否定しているのを知っていますし、ゲイ・バーなどに行ったこともないけど、聖書に関係なく生理的にゲイを気持ち悪いと思ってしまうのです。サンフランシスコのカストロ市に行って、男と男が手をつないで歩いているのを見ると、目をそむけたくなるのです。(ゲイの人たちには、“ごめんなさい”)


ところが、神さまは、私のまわりにそういう子供たちを置いてくれて、そういう偏見を取り除いてくれたのです。彼らは生まれながらにゲイなのです。


その子は、私たちの家のプールでみんなと泳いでいた子でした。その子の母は、私たちと親しいクリスチャンです。彼も教会でそだったクリスチャンです。だから、彼は自分がゲイだと知って、悩みに悩んだのです。“自分は呪われた者”“自分は地獄に行くんだ”と思わされたのです。


彼には、特殊の才能があって、今は、舞台装置作りの仕事をしていますが、私たちが、息子と一緒に彼と会った時、彼がゲイだということを知りませんでした。それで、妻が“ガールフレンドはいるの?”と訊いたら、彼と息子が変な顔して何も答えないということがありました。


ゲイだからといって別に普通なんです。否、ゲイの人って楽しいんです。みんなとてもentertaining(人をもてなすのが上手)です。いろんな分野で才能を発揮している人が多いのです。


彼の母から妻にあてたメールに、自分の息子からゲイだと告げられた時のことが書かれていました。自分のお腹をいためた息子が、自分はゲイだと告白したのです。彼女は、“そんなことなら、もう私はあなたと縁をきります”と言ったでしょうか。そんなこと出来ませんでした。その文面に彼が又彼の母がこのことでどんなに苦しい、つらい思いをしただろうかということが表れていました。


彼の母は、彼をそのまま受け入れました。それで、ゲイを受け入れた彼女はもうクリスチャンではなくなったのでしょうか?偽クリスチャンになったのでしょうか。私たちも彼のことをそのまま受け入れました。私たちも堕落してしまったのでしょうか?彼自身は何も変わりません。今まで通りの好青年なのです。


もう一組のクリスチャン夫婦の娘さんがレスビアンだという話を聞きました。子供の時から知っている娘さんです。彼女は、ある女性と結婚し、精子銀行から精子をもらって子供までもうけたのです。父親は、(しぶしぶ)受け入れているようですが、母親はまだダメのようです。


アメリカでクリスチャンになって日本に帰った夫婦家族の話です。彼らに二人の娘さんが与えられました。ところが、毎年のクリスマスカードの写真を見ると、なんとなく下の子どもが男っぽいのです。そして、ある日突然、下の子がトランスジェンダーだったので、手術して男になり、ある女性と結婚したと通知がきたのです。


このような事例を目のあたりにして、私は、これらを(皆)サタンの仕業として一蹴することが出来なくなったのです。勿論、神さまに“どうしたのですか”って尋ねますが、私たちは、彼らをそのまま受け入れるしか方法がないのです。


会社に通信の神学校に行っている人(共和党)がいまして、彼にこのことについて質問しましたら、著名な先生の長い論文を送ってくれました。結局、同性に対する性的欲求があってもそれを追行しなければいい、そういう欲求に負ければ罪を犯したことになるというのです。


同性との性的関係を持つか持たないかで決めているのです。イエスさまは、自分の妻以外の女性に性的欲求持つのは、姦淫したことになると仰いました。この言葉は、男性にとってとても厳しいことです。そういうホルモンをもって生まれているからです。


男性と女性が互いに性的欲求をもつというのは、人類の増加に・人類の繁栄に必要なことです。ところが、ゲイやトランスジェンダーは、その肉体と違うホルモンをもって生まれるのです。


昔から「男色」というのがあったそうで(よく知りませんが)、織田信長の小姓、森蘭丸がその相手だったなどということを聞いたことがあります。それは、生まれながらのホルモンの問題ではなく、変わったことをする楽しみみたいなことのように聞いています。もしそういうことなら、それは、ゲイとかトランスジェンダーとは違うのです。


イエスさまは、弱い人、社会から排除された人々を慈しまれたのです。私たちもSympathy(同情)ではなく,  Empathy(共感)するものでありたいと思います。 少なくとも彼らの悩み・苦しみの上に更なる重荷を加えてはならないと思うのです。・・・私たちの、あなたたちの子供や孫たちの中にも、そういう子が生まれてくる可能性があるのです。彼らはそのように生まれてきているのです。


私は、ここで、信条でクリスチャンであるかどうか決めることはできないということと、自分の政治的なpreferences(好み)を信者に押し付けるようなことをしてはならないということをお伝えしたいと思います。


アメリカのクリスチャンの大多数は、共和党だと聞いています。で、自分たちが正統派だと信じているのです。大教会の牧師のほとんどがそうだとのことです。(日本でも同じだと聞いています。)


そのリーダーたちは、ゲイやトランスジェンダーを認めません。勿論、堕胎も。そこにどういう現実があるのかなども考えもせずに、ただ聖書を振り上げ断罪します。そして、それがクリスチャンの正しい姿だというのです。


そして、ゲイの子やトランスジェンダーの子供たちは、殴られ銃で撃たれます。堕胎をするクリニックは爆破され、その医者も銃で撃たれるのです。ですから、キリスト教界のリーダーが聖書を片手に人を裁き、扇動するのは、重罪だと思っています。


『しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。』(マタイ18:6)


私は、これからどうなるのか静観したいと思います。そのうち、(どういう形かわかりませんが)主の裁きはくだると思うからです。私は、自分のup & down の人生に於いて、主のみ業をみてきました。主は生きておられます。


『12:17 だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。 12:18 あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。 12:19 愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。』(ローマ人への手紙12章17~19節)


文責:ロバート イー

信仰者は、此の世の「政治」にどのようにかかわるべきなのだろうか(2)・・・・ ー アメリカの政治制度について少しお話させてください ー

<Conservative vs Liberal(保守主義者と自由主義者)>


アメリカには、2大政党、共和党と民主党があります。そして、“Conservative”(保守主義者)と、”Liberal“(自由主義)という考え方があります。


“Conservative”(保守主義者)というのは、アメリカの伝統的な生き方・伝統的価値を守ろうとする人たちで、具体的には、「伝統的なアメリカの価値を維持し、政府は規制を少なくして、個人の生活には口を出さない。個人の生活は、基本的に自己責任、国の防衛を盤石にし、コミュニティーの法と秩序を守れば、それだけで充分。」という考え方です。


この考えは、<経済は自由にすればするほど成長する><個人は、自分で努力して自分の目的を達成する>という大前提をもっていると思います。単純なケインズの資本主義です。


一方、“Liberal”(自由主義者)とは、「政府は、伝統にこだわらず、新しい考えを取り入れて、すべての人に公平な機会が与えられ、平等に扱われる体制をつくる責任がある。政府は市民の自由と人権を擁護し、個人が自分の幸せを達成できるようにしなければならない。」と考える人たちです。


この考えは、<アメリカ社会には不平等、貧困の差があるから、その是正しなければならない>という考え方で、<ほっておくと貧困の差がどんどん増し、経済が破綻する>という考えが基本にあると思います。(実際に数年ごとに不況が来ています。)


で、私たちクリスチャンは、自分の考えで共和党の人もしくは民主党の人に投票するわけですし、勿論、特定の選挙運動に参加してもいいのです。ただし、キリスト教会の指導者たちは、いかなる選挙(政治)に於いても、誰々に投票しなさいと教壇から要請するというのは問題です。それは、宗教と政治の混同になりますし、宗教をもちいた扇動になります。


更に、選挙後に、“選挙に不正があったというデマ”までまきちらした人がいたのは、まことに残念だと言わざるを得ません。皆さんがごらんになったように、そういう不満が暴動につながったではないですか。根拠のない選挙の批判は、民主主義を否定するものです。これは、アメリカの歴史の汚点となりました。


大体、選挙権もない日本のキリスト教の指導者がアメリカの選挙についてありもしないことを平気で言うなんて、言語道断です。それも自分の意見ではなく、誰々がこう言ったと言って責任を回避しているのです。


<Conservative Christian(保守的クリスチャン)とは何ですか>


保守的クリスチャンは、具体的に、一定の信条を持っています。今度の選挙で叫ばれた「保守的クリスチャン」の信条はというと、(1)胎児の生命を守る(2)ゲイやトランスジェンダーを認めない(3)秩序を守る警察を支持する(4)社会主義や共産主義を否定し、資本主義を守る(5)ユダヤ・キリスト教的価値観を持っているというような項目だと言えると思います。


で、問題は、このように考える人は、クリスチャンで、そうでない人は、クリスチャンでないか、偽クリスチャンだと決めてかかることです。


私は、この項目全部に賛成しますが、“BUT”(しかし)がつきます。だから、共和党クリスチャンから見ると、私は(かぎりなく)偽クリスチャンなのです。もし、この項目に全部賛成し、且つ“BUT”がつかなければ、その人が姦淫をしていてもOKなのですか?明らかな嘘を平気でつく人がどうしてクリスチャンと言えるのでしょうか?


・・・続く・・・


文責:ロバート イー

信仰者は、此の世の「政治」にどのようにかかわるべきなのだろうか(1) ・・・  ー  <宗教と政治は話題にしない> ー

宗教と政治については話題にしない、と言われます。それは、議論になって、あまり有意義な時を持つことができないからです。でも、違う考えに人がお互いに歩みあうことができれば、話題にするのも許されるかなと思っています。


昨年の大統領選挙では、アメリカが真っ二つに分かれ、夜も寝られない時を過ごした人もいたことだろうと推察します。政治は、単に政府の人事の問題ではなく、私たちの日常の生活に関わることです。


そういう状況の中で、私を悩ましたことは、教会が、否、教会の牧師たちが誰々に投票しなさいというような指示をしたということです。誰々はクリスチャンだからとか、否、彼はクリスチャンのわけはないとか喧々囂々でした。未だに争っている人もいます。


〈クリスチャンとは何か>


私は、(祈れば山が動く、祈ればどんな病気も癒される、信仰がすべてを律するという)きわめて保守的で原理主義的な教会で救われました。そして、そういう教会のみが“本当”の神の教会だと信じていたのです。


どこに行く時も聖書を離さず、聖書は文字通りボロボロになるまで読みました。聖書を文字通りに読み、聖書のみ言葉に従って生きるのが“本当”のクリスチャンという考えです。ですから、当然、他の宗派には批判的で、カトリック教会に対しても良い評価をしていませんでした。


神さまは、そんな私にいろいろな経験をさせてくださり、(今では)イエス・キリストを贖い主と信じる人々は、(たとえ、どんな信条を持っていても)みんな“本当”のクリスチャンだと認めるようになったのです。


<教会と此の世の関係>


そういう保守的・原理的な信仰を持った私は、「ホームレスに食事を提供するとかバザーなどして資金を募るというような教会は“本末転倒”している」と批判していました。教会は「神の家」、礼拝と福音伝道に直接係わらない社会事業に傾倒するのは、教会を単なる福祉団体にしてしまうものだと糾弾していました。


教会は、祈りの家です、神さまと交わるところです。それは、過去から未来永劫にわたり、誤りない見方だと思います。でも、それだけではないと主は私に示されたのです。


もう、40年以上も前の話ですが、タイで伝道していた森本憲夫先生が北米ホーリネス教団の招きで、伝道集会のご用の為にロサンゼルスに来られました。(森本先生は、58年もの間タイで伝道されていましたが、昨年8月23日にタイで主のもとに召されたそうです。)


その時、森本先生は、タイで身寄りのない子供たちを預かる孤児院伝道のお話をされたのです。それで、3日間でしたか、その伝道のために金銭的なサポートをしてほしいというお話でした。それで、ロスアンゼルスの教会の多くは、その時から毎月献金するようになりました。未だにそれを続けられている教会があるだろうかと思います。


集会が終わり、私がたまたま先生をパサデナに送ることになりました。私は、運転しながら、車の中で先生に訊きました「先生は、孤児院を営み、子供たちに食事と住むところを提供している(寺院で)わけですが、福音伝道についてのお話があまりなかったのが残念でした。孤児を救済しても救われなければ、それは単に社会福祉事業で終わるのではないでしょうか?」


質問というより、詰問でした。後ろに座っていた先生の顔は、見えませんでしたが、少し間をおいて(やさしい声で)答えられました「・・・生きていてくれなければ、福音は伝えられません。・・・」。


<クリスチャンは、此の世に生きている>


人はこの世に生きているのです。此の世の空気を吸い、此の世の食物を食べて生きているのです。クリスチャンだから、そんなの必要がないとはいえません。人は、此の世にどうしても係わらざるを得ないのです。否、積極的に係わらなければならないと思います。係わる責任があるのです。


聖書の戒めの中で何が一番重要な戒めかと訊かれて、イエスさまは、第一は神さまを愛すること。第二はあなたの隣人を愛することだと仰いました。それでは、“隣人”とは誰の事ですかと訊いた人に「あなたの助けを必要としている人です」と答えられました。良きサマリア人の話です。(ルカの福音書10章29~37節)


私たちクリスチャンは、此の世の営みに積極的に係わっていく“責任”があるとイエスさまは仰いました。神さま第一ですが、神さま第一であるが故に(それが主のみ心であるが故に)“隣人”をも第一にしなければならないのです。


<クリスチャンは、みな同じではない>


イエス・キリストを救い主と信じるクリスチャンが皆同じ考え方をするわけではありません。だから、いろいろな宗派があるわけで、同じでなければならないということではないのです。ですから、イエスさまは、お互いに裁きあわないようにと戒められました。


・・・続く・・・


文責:ロバート イー